もう一つの視点

真理は少数から始まる

日本卓球の限界と課題

 世界卓球が終わった。毎回、同じ再放送を見せられているかのような結果である。おそらく次の大会も、似たような結果になるだろう。

 これまで出場してきた日本の選手たちは、すでに心技体の限界近くまで到達している。あと何年練習を重ねても、現在の自分を大きく超えることは難しく、中国の壁を破ることも容易ではない。

 もし次の大会で金メダル獲得の可能性を高めるとすれば、女子決勝で中国選手を破った2人を除き、男女ともに代表選手を大幅に入れ替えるくらいの発想が必要である。早田選手は高い実力を持つ一方、純粋な運動能力の面では中国勢に分があるように見える。また、今回出場しなかった伊藤美誠選手や平野美宇選手も、技術力は中国選手に匹敵するものの、精神面の安定性に課題があり、中国を継続的に破るまでには至っていない。男子に関しても、現状では技術面で中国との差が存在しているように感じられる。

 今後は、心身ともに優れた新たな人材の発掘と育成が重要になるだろう。卓球(練習や試合)に向き合う考え方や精神力、反射神経、運動能力といった基礎的資質を備えた人材を発掘し、そこに高い技術力を戦略的・計画的に積み上げることで、中国を超える可能性が見えてくる。4歳頃からフォアやバック練習をいくら続けても、入らなかったり打ち負けたりする。技術だけの話ではないのである。選手個人にすべてを任せて「日本代表」などということは、もうやめた方がよい。国として、あらゆる面において高度なレベルで、かつ科学的に選手たちを管理・指導する必要がある。

 とはいえ、現在主流となっている「パワー対パワー」の戦いでは、中国に勝てる可能性は決して高くない。中国はすでに長年上記のような取り組みをしてきたからだ。選手発掘や育成、指導体制、練習方法の面で、日本は中国に後れを取っている。だからこそ、カットマンのような異なる戦術やスタイルを含め、多角的な強化策を検討する必要もある。相手の土俵でのぶつかり合いで今から勝つことは簡単ではない。

 これまでの日本女子選手たちが中国に勝てなかったのは、選手たちの姿勢や雰囲気も大きな要因だった。「試合を楽しみたい」という発言や、得点時・失点時のおかしなリアクション、試合中の笑いや舌出し、ミス後の軽いうなずきなどを見ていると、世界一を本気で目指す緊張感や覚悟、集中力が十分に伝わってこない場面がある。技術だけでなく、練習や試合に向き合う姿勢、謙虚さ、集中力、冷静さといった精神的な要素が、卓球という競技においては、勝敗を大きく左右する。

 何十年も続く「あと一歩届かない」という状況を打破するためには、これまでの選手任せによる幼い空気感を見直し、専門的管理下において効果的で戦略的な選手育成へかじを切る必要がある。

カスハラ議論の死角

 カスタマーハラスメントに関する法整備を進めるのであれば、逆の立場に対する救済や不正確・不誠実な対応を抑制する仕組みについても、同時に整備されるべきである。
「カスハラだ」「誹謗中傷だ」と主張すれば、不適切な対応や言動がすべて許容されるわけではない。制度が、一方的に立場が弱くなりがちな利用者側を抑えつけるための道具になってはならない。
 私はこれまで、公務員や医療機関の事務員、店舗スタッフなどから、誤った内容を傲慢に押し付けられる経験を何度もしてきた。しかし、知識が乏しく正確な事実を理解していない相手に説明を尽くしても、納得を得ることは難しい。結局、早期に切り上げるために、いつも泣き寝入りを強いられてきた。
 もちろん、悪質なカスタマーハラスメントが存在することは理解している。暴言や威圧、長時間の拘束といった行為が許されないのは当然だ。しかし、それは全体から見ればごく一部の例に過ぎないだろう。基本的には、火のないところに煙は立たないのである。
 一部の不当な行為から身を守るための法的な力を求めるのであれば、それと同時に、利用者に対する高圧的な態度や不誠実な対応、誤った説明、説明不足、責任逃れなども、同様に厳しく問題視されなければならない。
 本当に必要なのは、どちらか一方の権利だけを守る制度ではなく、双方の不当な行為を抑制し、正当な主張を持つ立場の弱い人が適正に救済される仕組みである。

不登校の原因と対策

 令和6年度の調査によると、全国の小学生のうち13万7704人(約44人に1人)が不登校で、10年間で5倍以上に急増している。中学生なら昔も学校に1人位いて、保健室通学をしたり遅刻して登校したりしていたが、現在は低年齢化が進み、人数も比べものにならない。

 なぜこのような事態になったのか。考えられる要因の第一は、家庭の教育力の低下である。適切な子育ての方法がわからないまま、親の感覚や好み、都合を優先してしまうことで、子どもが我慢できなかったり、他者とうまく関われなかったりする状況が生まれる。最低限の子育ての知識を学ぶ機会を、産婦人科や自治体など社会の仕組みの中に位置付ける必要があるだろう(家庭教育に関する初期講習、1年講習、3年講習などを短時間で義務化し、教習本を配布するなど)。

 第二に、テレビに登場するお笑い芸人の影響がある。他人をからかったり馬鹿にしたりして笑いを取る姿や、「ツッコミ」と称して頭を叩く行為が日常的に放送されている。それを見て育つ子どもたちは、悪意なく同じ行為を友達に対して行ってしまう。被害を受けた子どもが学校に行きたくなくなるのは当然だ。これはテレビ局全体の意識改革が必要だが、ジャニーズ問題やハラスメント問題への対応を見る限り、表面的な改善はできても本質的な改革は難しいと感じざるを得ない。子どもはテレビから多くを学ぶ。不適切な番組を見せないようにするしかないが、その判断もまた親に委ねられている。

 第三に、文科省が推進してきた「個性の尊重」「自主性の重視」「表現力の育成」といった理念が、結果として未成熟な子どもを自由にしすぎた面がある。成長の過程では、多少の壁や抵抗を経験することが必要だ。それを避けさせてしまうと、後になってより大きく乗り越えられない壁に直面し、かえって子どもを苦しめることになる。

 これらの理念が登場する以前、学校には一定の権威があり、指導が子どもに浸透して高い教育効果が得られていた。モンスターペアレントのような存在もおらず、担任や学校の指導に従うことで、子どもは健全に育ち、いじめや不登校も少なかった。そして、そのような教育を受けた世代が日本の経済成長を支えた。文科省の官僚には、耳障りのよい言葉を並べるだけでなく、その結果を想像する力が求められる。現場経験がなければ難しいのかもしれないが。

 これらの要因に対して、現場で必死に対応している担任を責めても問題は解決しない。情報番組に出演する無責任なお笑い芸人や、いかがわしい自称“専門家”、詭弁を弄する弁護士たちに扇動され、自分の子どもや学校教育、日本社会を犠牲にする意味があるだろうか。落ち着いて全体を俯瞰してほしい。彼らの目的は視聴率であり、ギャラである。他人の子どもや社会の将来など関係ない。視聴者も、バラエティとして割り切って受け取る必要がある。

欧米の道徳と日本の道徳

 欧米や中東地域の道徳教育は、その根底を宗教的な「絶対のルール」に置くことが多い。正しいか否かを神の教えという外側の基準で判断するこのあり方は、時にそれ以外の価値観を「悪」と断じる排他性を生み、深刻な対立の火種となってきた。

 対して日本の道徳は、特定の厳しい教典による教育ではなく、神々や仏教がもたらした「おおらかで寛容な空気」を土壌としている。1000年以上の時を経て、日本人の生活や思考に深く浸透してきたこの神仏の懐の深さが、学校教育における「相手を思いやる心」や「協力」、「助け合い」を重んじる姿勢に自然と繋がっている。日本人は外からの強制ではなく、この穏やかな価値観の中で、周囲と手を取り合うことを自らの規範として身につけてきた。

 信じる宗教によってその中身が異なる不確かな「絶対」を、唯一の正解として他者に押し付けることは争いを招きかねない。こうした対立を超えるための道として、日本が育んできた寛容な神仏のあり方やその道徳教育に、世界が平和に向かうためのヒントがあるのではないだろうか。

 思いやりを持ち、互いに助け合い、皆の幸せを考える「和の精神」を人類が共有することが、絶え間ない紛争を解決する大きな一歩になるのだが、1500年以上続き信じられてきた宗教を変えることなどありえない。結局、世界はなるようにしかならない。

環境汚染に見る教育の力

 自分の都合を優先し、塩素系洗剤やシャンプー、油などを直接川へ流す。あるいは交換費用を惜しんで古い浄化設備を使い続け、汚水を垂れ流す。こうした身勝手な振る舞いが、社会のあちこちで行われている。その排水は、浄化しきれない微量な成分となって地域住民の飲み水に混じり、体内に蓄積されていく。これは、自覚なき加害者が他人の命を少しずつ削っているという恐ろしい現実である。

 本来、公衆衛生を脅かす行為は厳しく律されるべきだが、自治体も国も事なかれ主義で偏った理由を並べ、本気で改善しようとはしない。結果、個人の身勝手が優先され、犠牲になるのは常にルールを守る誠実な市民である。なぜ、市民を犠牲にしてまで身勝手を許す社会になったのか。その根底にあるのは、学校や家庭における「教育力の低下」ではないだろうか。社会の中で不適切なことができない人は、どんな状況でもできないものである。一方で「バレなければいい」と考えてしまう人は、それまでの教育の力が弱かったと言わざるを得ない。

 道徳心や思考力、判断力などが適切に身に付けられなかった結果、自らを律することができない未熟な大人が、住民としても行政の担い手としても増えている。

「教育が社会を作る」という言葉の意味を、今こそ私たちはもう一度、皆で確認しなければならない。教育が本来の力を取り戻し、一人ひとりが他者への思いやりを持って、自らの身勝手さを抑える力を身につける。こうした「自分自身を律して行動できる人間」が育ってこそ、誰もが安心して暮らせる、本当の意味で住みやすい社会を共に作っていくことができる。