もう一つの視点

真理は少数から始まる

「説明責任」という名の責任逃れ

 政治家による不適切な言動が報じられるたびに、「説明責任」という言葉が繰り返されるようになった。本来あまり耳慣れなかったはずのこの言葉は、むしろ政治家自身が都合よく使い、広めてきたものではないだろうか。「説明」の名のもとに語られるものは、自らに都合のよい理由付けや詭弁、あるいは一部だけを切り取った“真実らしきもの”にすぎず、実際には責任逃れのための方便でしかない。

 どれほど言い訳を並べても、不適切な言動があったという事実は変わらない。にもかかわらず、「誤解が生じた」と責任を他者に転嫁する姿勢は、あまりに身勝手で不誠実である。こうした対応が繰り返されることで、国民やメディアが諦め、やがてそれが“当たり前”として定着することさえ狙っているのではないかと疑いたくなる。

 嘘も百回言えば真実になる。バレなければやってしまえ。そんな発想を思わせる振る舞いには、自己保身のためなら何でもできる傲慢さと、権力を手にしたことによる慢心が滲み出ており、人としての誠実さや羞恥心を失わせているように見える。

 そうした光景を見るたび、「政治家とは一般の市民とは異なる種類の人間なのではないか」とさえ感じてしまう。しかし本来、政治家は国民の代表であり、より高い倫理観と責任感が求められる存在であるはずだ。

 そもそも「説明責任」なる名目で言い訳の場を与える必要はない。実際の不適切な行為に対して、相応の責任を取らせることこそが社会の常識である。公務員の懲戒処分や刑事事件においても、問われるのは言い訳が上手か下手かではなく、行為が適切か否かという一点である。

 責任を取るとは、単に「ごめんなさい」と口にすることではない。謝罪の言葉は、「私が悪かったので、これから責任をとっていきます」という宣言に過ぎない。責任をとるということは、原状回復に加え、金銭的・精神的・時間的・労力的な損害に見合う対価を負担し、能力不足、不適格として職や役職を離れることである。法に触れれば罪を償うのも当然だ。謝罪の言葉だけで幕引きを図る政治家は、説明責任を振りかざして言い訳を重ねる政治家と大差ない。

 今日も、高市氏と小泉氏が政治資金規正法違反行為をしていたというニュースが流れていたが、「バレたから返金し修正したので罪にはならない」という理屈は、盗んだ物を返せば無罪になるという話と同じで、普通であれば通用するものではない。

 不祥事が明るみに出れば開き直り、嘘や詭弁、都合のいい部分だけを並べ、逃げ切れないと見るや秘書や事務所へ責任転嫁する。こうした態度を目にすると、悪質さを指摘せざるを得ない。一般市民の多くはこのような行動を取らない。それでも彼らは国民の代表として国政の場に居続ける。この矛盾を受け入れている社会や国民が、政治家から試されているのである。