もう一つの視点

真理は少数から始まる

「適法」の影で責任は消えたか

 今、わが国の政治資金を巡る問題に対し、多くの国民が「モヤモヤ」とした違和感を抱いている。その違和感の根源は、政治家が主張する「法的には問題ない」という「適法性の論理」と、国民が求める「政治家として許されるのか」という「倫理性の要求」との間に生じた、深刻な断絶にある。この問題の典型例が、維新の会の藤田文武共同代表の「関連企業への政治資金支出」である。藤田氏は一貫して「実態を伴う商取引であり、当時のルールに照らして適法であった」と主張している。しかし、国民の目には、公的資金が政治家本人の身内企業に流れ込む構造は、利益供与や私的流用と同質のものとして映り、納得できるものではない。

 藤田氏の行為が当時の法律(政治資金規正法)に違反していなかったとしても、それは「ルールの穴」を突いたに過ぎない。政治資金には、極めて高い公共性が求められる。にもかかわらず、自身の秘書が代表を務める企業に多額の公的資金を支出することは、公私混同という強い疑念を構造的に生み出す行為そのものである。政治家にとって、「法的な白」であることは、「政治的な正しさ」を意味しない。この行為が発覚した結果、所属政党である維新の会が「関連企業との取引禁止」という、現行法よりも厳しいルール改正に動かざるを得なくなった事実こそが、藤田氏の行為が当時のルール下で不適切なものであったことの動かぬ証拠である。不適切な行為がなければ、ルールを強化する必要は生じないからだ。

 そして、吉村共同代表がルール改正を主導しているのは、再発防止と党の信頼回復という点において評価できる。しかし、同時に懸念されるのは、「制度の健全化」が「個人の責任追及」の代償にされているという点である。吉村氏の対応は、藤田氏の過去の行為の法的断罪を避け、「将来は禁止するから、過去の責任は問わない」という政治的な幕引きを意味する。これにより、藤田氏は「当時のルール違反ではなかった」という主張を続けることができ、倫理的な責任を負わされることなく政治活動を継続する可能性が高い。国民のモヤモヤは、この「適法性を盾にした責任の回避」という現象にこそ向けられている。

 政治家は、「理由や意図」の弁明ではなく、「実際の言動」と「結果」によって評価されるべきである。藤田氏の行為は、「公金を身内に流した」という現象と、「国民の政治不信を増幅させた」という結果において、明らかに不適切であったといえよう。

 

 ちなみに、個人に渡された名刺を、渡した本人の許可なく勝手に公にすることは、社会常識に反している。謝罪し、責任を取り、今後は改めなければいけない。また、藤田氏は自分の会見時の態度の悪さを笑いながら(茶化しながら)謝罪していたが、問題はそこではない。この謝罪によって、マスコミも世間も「彼は身内への公金流入を反省している」と勘違いし、追及は終わりを迎えた。皆、藤田氏の論点外しに完全にやられてしまった。