日本が進めるGIGAスクール構想は、全国の児童生徒に一人一台の端末を配備し、ICTを活用した教育を推進するという壮大な計画である。だが、この構想が「教育の未来を開く鍵」として語られる一方で、30年ほど前からICT教育が進められてきた世界の教育先進国がすでにICT中心の教育が限界となり、脱却を図っている現実を見落としてはならない。
スウェーデンやフィンランド、フランスなどでは、子ども達の読解力や数学力、科学力などの学力低下、長文読解や深い思考の困難、社会性や表現力の低下、集中力の低下、対話力の喪失など、身体面では視力低下や睡眠障害、精神的不安定などが、ICT過多の教育によって顕在化している。これらの国々は、かつてICTを教育の中心に据えたが、その副作用を直視し、紙の教科書や対面での対話を重視する方向へと舵を切り始めている。つまり、教育の本質は「人間同士の関わり」にあるという原点に立ち返ろうとしているのである。
一方、日本は今まさに、世界が通り過ぎた道を「理想」として追いかけようとしている。端末の配備やネットワーク整備に莫大な予算を投じ、教育現場にICTを押し込もうとしているが、その導入は教育理念に基づいた熟議を経たものではなく、技術導入を目的化した政策主導である。現場では、教員の負担増、教材の質のばらつき、子どもたちの画面依存など、すでに多くの問題が噴出している。
教育とは、単に情報を得ることではなく、思考し、対話し、表現する力を育む営みである。ICTはその補助であり、決して教育の中心に据えるべきものではない。世界がそのことに気づき、教育の人間性を取り戻そうとしている今、日本が逆行するような政策を進めることは、子どもたちの未来に対する重大な責任放棄である。
GIGAスクール構想が教育の未来を開く鍵となるためには、まず「何を育てたいのか」という教育の本質的な問いに向き合う必要がある。技術は手段であり、目的ではない。今こそ、日本の教育政策は、世界の潮流を冷静に見つめ直し、子どもたちにとって本当に必要な学びとは何かを問い直すべき時である。子ども達を画面に閉じ込めてはいけない。
全国の全ての小・中学生にタブレットを与え、ICT教育一色となった今の学校教育を見ていると、アメリカ、ドイツ、イギリスなどの原発先進国が高速増殖炉から撤退し始めた1990年代に日本が「もんじゅ」をスタートさせ、大きな事故を繰り返し起こし続けて、最後は廃炉となったことと重なって見えてくる。日本は、無知な人の感覚や未熟な考えで、取り返しのつかない程の莫大な税金をどぶに捨てることが時々ある。
教員免許更新講習もなぜか10年程でなくなったが、その間の教員の時間的・金銭的な負担はかなり大きなもので、しかも講習の内容がひどかった(大学教授も慣れておらず、自分の研究の話や雑談まがいの話で終わるようなこともあった)。GIGAスクール構想の推進もそうだが、学校教育に関しては無知だが「自分が日本の教育を変えた」と自慢したいと思ってしまった有力政治家でも、過去にいたのだろうか。