もう一つの視点

真理は少数から始まる

残念なGIGAスクール構想(後編)―知的蓄積は今どこへ

 日本の教育は、GIGAスクール構想の推進によって大きな転換点を迎えている。全国の小中学校に一人一台の端末が配備され、校舎には高速ネットワークが整備された。教育のデジタル化は、表面的には「未来志向の改革」として歓迎されているが、その実態は、教育の本質を揺るがす深刻な変質を伴っている。

 かつて日本の教育界では、教材研究や指導法の精緻化に関する膨大な知的蓄積が行われてきた。兵庫教育大や筑波大、広島大、学芸大などの教育系国立大学の図書館には、過去数十年間にわたって蓄積された学術論文や実践研究論文、教科教育の学会誌等が保管されている。これらは、大学研究者、現場の教師、院生たちが、子どもの理解過程や教材分析に向き合いながら積み上げてきた教育遺産である。

 しかし現在、それらを活用、発展させる状況ではなく、日々の授業や校内研究、教育論文の中心が、タブレットの操作や教育ソフトの活用法、大型画面による児童の考えの可視化といった技術的な話題に偏り、児童による理解や問題解決、指導法の検討といった本質から離れつつある。教育の中身よりも、授業の演出や操作技術が重視される傾向が強まり、教育の知的基盤が空洞化している。

 このような状況は、かつての「ゆとり教育」以上に深刻な学力低下を招く可能性がある。子ども達がタブレット操作に没頭する姿は、外見上は学習意欲の表れのように見えるが、実際にはタブレット操作に夢中になっているだけで、記憶の定着や思考の深化が著しく損なわれている。教育とは、五感と身体を通じて概念を理解し、対話を通じて思考を深める営みであり、画面上の操作では代替できない部分が存在する。画面の小ささも、検索や気づき、思考を狭くする要因となる。

 GIGAスクール構想は、安倍政権下で打ち出された政策であり、教員免許更新制と同様、政治的理念が強く反映されたものである。教員免許更新制は、安倍元総理の死後にようやく廃止された。GIGAスクール構想もまた、今後の更新サイクル(約5年)を機に、教育的妥当性を再検討する必要がある。もう忖度の必要はない。タブレット端末の更新、ネットワークの維持、ソフトウェアのライセンスなど、継続的な支出も莫大であり、すべて税金によって賄われる。これらは将来世代の負担となる可能性が高く、教育の中身を伴わない技術導入は、投資ではなく浪費となる危険性がある。

 教育政策は、理念と現場の実態に基づいて慎重に設計されなければいけない。GIGAスクール構想の見直しにあたっては、教育の知的遺産を再評価し、教材や子どもによる理解、指導法などを中心に据えた学びの再構築が求められる。ICTを使うのであれば、本当に必要な時だけ補助的に活用されるべきであり、教育の中心に据えるものではない。学校教育や学力などに無知な政治家の単なる思いつきや見栄に過ぎない。今こそ教育の本質に立ち返り、5年後の改革に向けて子ども達の未来に責任を持つ政策を再構築すべきであろう。

  平仮名やたし算を学ばなければいけないのに、難しいタブレット操作を覚え慣れることに時間を費やす小学1年生、学習内容ではなく操作に集中している中学年、自由度の大きい紙とは異なる狭いタブレットの中で制約を受けながら学ばされる高学年。舵を切るのは、早いほうが良い。