地方自治の根幹が揺らいでいる。静岡県伊東市では学歴詐称が発覚した女性市長が、自身に不信任を突きつけた議会を解散した。群馬県前橋市では、既婚の部下とのラブホテルでの密会が報じられた女性市長が続投を表明し、部下のみが事実上処分された。いずれも首長の不祥事に対して議会や市民が責任を問おうとした途端、制度上の「防御壁」が作動したかのような事例である。
本来、首長は市民の代表として、最も誠実で謙虚であるべき存在だ。市民の信託を受け、公共の利益のために働く「代行者」であり、決して「支配者」ではない。しかし日本では、首長が「偉い人」として扱われ、責任を逃れて居座れる風土が根強い。こうした姿勢は地方に限らず、国政の場でも長年繰り返されてきたものであり、「責任をとれない政治家」という構図は広く共有されている。
背景には地方自治法178条がある。議会が首長に不信任を可決した場合、首長は議会を解散できる。本来は民意による再審査を促す制度だが、実態としては「追及を封じる手段」として機能してしまっている。不正を正そうとする側が、かえって“報復”されるという構造は、民主主義の逆転現象である。
さらに問題なのは、こうした欠陥への抜本的な見直しが進んでいないことだ。識者からは議会解散権の制限や首長への倫理審査制度の導入が求められているが、国政での優先順位は高くなく、改正の兆しはない。
市民が使える手段は限られている。リコール制度は存在するものの手続きが煩雑で実効性は低い。メディアの監視も権力者の言動を報じることにとどまり、「検証する」姿勢も能力もない。
問われているのは、制度の設計思想そのものだ。代表とは誰のために存在するのか。権限とは何のために与えられているのか。市民が主権者であるという原則を、制度と文化の両面から再構築する必要がある。
民主主義は制度の形だけ整っていても、中身が空洞化すれば容易に形骸化する。首長の「解散権」とは、果たして誰のための権限なのか―この問いに向き合わなければいけない。
その後、伊東市では該当市長が強制失職したものの、次の市長選に再び出馬するという。当選すれば、同じ構図が繰り返される可能性もある。市民はいつまで大金をかけた茶番劇を続けるのだろうか。前橋市でも批判が止まらず、ようやく市長は辞職したが、最後まで次期選挙への出馬を否定しなかった。政治家たちの責任を取らぬ図太さ、強靭に見えるその精神は、突き詰めれば幼さに行き着くのだろう。