もう一つの視点

真理は少数から始まる

「歴史」は外交上の武器

「歴史」は、しばしば自国の立場や利益を正当化するために作られた話である。そこには客観性よりも、国益国民感情を優先する姿勢が透けて見える。一部分の事実のみを語ったり、事実を誇張したり、都合のよい解釈を積み重ねたりする傾向は、中国や韓国に限らず、世界各国に共通する。

 アメリカでは、第二次世界大戦中の日本への大規模空爆原子爆弾投下について、「戦争終結のために必要だった」と教育されている。しかし、その結果として一般市民が大量に犠牲になった事実を、いかなる理屈でも正当化することはできない。さらに、東京裁判ではアメリカのみならずヨーロッパ諸国も、勝者が敗者を裁くという「勝者の論理」を是認し、法の名を借りた政治的裁きを容認した。

 このように見れば、歴史も法律も、必ずしも正義や公平のもとにあるわけではない。それらを、外交戦における「武器」として利用する国がほとんどであろう。中国や韓国などは、自分たちの不適切行為が非難を受けると、日本に対して「歴史を直視せよ」、「反省せよ」と言うが、これは「我々が作り上げた歴史に従え」、「(我々が作った歴史に背いているから、)非難はやめろ(?)」という意味である。

 歴史とは、本来、人類が過去から学ぶための知的財産であるはずだ。しかし実態は、各国が自国の都合で作り替え、利用し、主張する「政治的産物」となっている。理想としての「共有の歴史」など、実際には存在しない。そもそも、万が一そのようなものができたとしても、人間の欲ゆえに歴史から学ぶことなど不可能なのである。先の大戦から80年間、世界中で平和が叫ばれてきたが、現在が最も第三次世界大戦に近づいている。私たちは、「歴史」という言葉が発せられるとき、正義や理想から離れ、その背後にある意図と力学を冷静に見抜く目を持たねばならない。

 中国や韓国が日本に対して何を言っても、当人である日本側は「相手が嘘をついている」とわかるので関わらなければ済む話なのだが、世界の国々はそうはいかない。堂々と嘘を並べ立てる国などあるわけがないと思って信じてしまう国も出てしまう。そこで日本もあえて関り、当たり前の説明を世界に向けておこなわなければいけなくなる。作業と時間の無駄である。世界の国々も、自国の大使などを通じてその国の国民や政府の実態を理解し、客観的事実による公正な評価ができる力を身につけてもらいたい。