もう一つの視点

真理は少数から始まる

負の遺産と人権教育 ― 理想を求めるほど遠ざかる現実

 草津温泉の近隣に「国立療養所栗生楽泉園」がある。かつてハンセン病患者が隔離生活を送った場所であり、昭和初期には過酷な「重監房」も存在した。現在は人権教育の一環として、負の遺産を後世に伝えるための「重監房資料館」が設置されている。

 ハンセン病の歴史を知らない現代の若者は、患者に対して特別な差別意識を持たないだろう。学校で「思いやりを大切にしなさい。差別をしてはいけません」という普遍的な道徳を繰り返し教育されているからだ。しかし、過去の凄惨な事実を具体的に知らされると、かえって「ハンセン病は差別の対象になり得るものだ」という認識が刷り込まれる側面は否定できない。頭で理解しても、感情が追いつかず、心理的な距離感が生じてしまう。ちょっとしたきっかけで、その感情は牙をむく。

 この構図は他の差別問題にも通じる。黒人差別の背景を知らない日本人は、先入観なく接することができる。しかし歴史を詳しく学ぶことで、かえって接し方がぎこちなくなったり、差別意識が芽生えたりすることもある。同和教育においても同様だ。

「事実であれば教えるべき」という論理もあるが、それはあまりにも短絡的であろう。たとえば先の大戦において、他国の兵士による日本兵の遺体のむごい扱いや虐殺の凄惨(せいさん)な細部、北方で日々行われた日本人女性へのレイプとその後の殺害などを、学校で子供たちに教える必要はない。重要なことは、特定の凄惨な事実を羅列することではなく、もっと根本的、抽象的、かつ総合的な「人間としてのあり方」を規定する道徳的判断力、道徳的心情、そして道徳的実践力を、教師が責任を持って身につけさせることである。

 ちなみに、「『寝た子を起こすな』という主張は間違っている」とは、被差別側からよく聞かれる言葉である。しかし、それは教育の名目で「偏見」と「利権」を再生産し続ける負のループを断ち切るための、きわめて全うな正論という側面を持っている。現実の社会調和を優先するならば、不適切どころか、最も結果を重視した現実的な解であり、教育が招く実害を防ぐための「合理的で現実的な防衛策」である。

 具体的な負の遺産の提示が偏見や憎しみを生む大きな一因になっているのであれば、教育の在り方を再考すべきであろう。