もう一つの視点

真理は少数から始まる

建築家の勘違いが風景を汚す

 建築物を眺めたとき、言葉にできない悲しさや不気味さを感じることがある。例えば、最高裁判所大法廷の天井にある、グローリーホール(ダム穴)のような不気味な穴。あるいは、京都の玄関口に建つ、中国が想像した未来都市のようなデザインの京都タワー。これらは、建築家が頭の中でこねくり回した理屈によって生み出された、いわば「設計士の勘違いによる事故」のようなものに感じられてしまう。

 最高裁の大法廷には、本来、判決を待つ人の心に寄り添うような誠実さと威厳が求められるはずだ。しかし、そこにあるのは壁や机のデザインや雰囲気とは全く異なる、冷たく無機質なホールである。設計士は「光の筒」などと称しているようだが、実際に見る側が受けるのは、違和感と不安しかない。

 京都タワーも同様である。すぐ近くに、歴史と職人の技術が結集した本物の五重塔があるにもかかわらず、なぜわざわざ「和ろうそく」という苦しい後付けの理屈を掲げ、不自然な材質・デザインの塔を建てたのか。京都の歴史や風景に対して無作法なことである。

 こうした理屈先行の不自然さは、近年も見受けられる。現代的な建築物の壁に、木の板や棒を装飾として貼り付けたデザインの建築物を全国各地で目にするが、それらは本当に環境に溶け込んでいると言えるだろうか。

 一部の専門家たちも「木材を使っているから温かみがある」と主張するが、それは大きな勘違いだ。日本の古民家やお寺の建物が温かみを感じさせるのは、木という素材が周囲の環境や建物の構造と調和しているからである。現代的な材質の壁に、ただ無造作に木を貼り付けただけのデザインに本来の温かみは感じられないし、そこにあるのは調和ではなく、むしろ周囲から浮き上がった異物感である。

 専門家がどれほど理屈をつけても、多くの人が「変だ」と感じるものには、必ずその感覚を裏付ける正当な理由がある。人間の素朴で素直な感覚は、建築家の独りよがりな理屈よりも、はるかに正確に建築の本質を見抜く。

 市民感覚こそが、「勘違いしたデザイン」によって日本の風景が汚されるのを防ぐ防波堤となる。